2016年1月21日木曜日

三寶寺



『 三寶寺 』
織田宗家菩提寺。
御霊屋にお祀りしてある
信長公の肖像画写真は
織田家家臣大武丈夫さんの撮影で
三寶寺、宮内庁、東京の織田家の
3ヶ所に納められたそうです。

織田家代々の御位牌79名をお祀りしてある
御霊屋があるとともに
御霊屋の北側には
側室八重の方のお墓





歌川広重と親しかった
お宝鑑定団にも名前が出てくる
田野文仲(たのぶんちゅう)さんのお墓
文仲さんは織田藩藩医で江戸で産まれ育ち
狂歌の会で歌川広重と知り合い親しくなり
肉質画を織田藩の為に広重に頼み
天童広重と呼ばれる
広重の肉質画が生まれました。
自身の肖像画とお父さんの肖像画も
肉質画で広重に描いてもらっています。

将棋の駒の元祖
天童の将棋の駒はこの
御二人から始まりました。
米沢から呼び寄せられ





駒造りを教えて広め天童に眠っておられる
大岡力次郎さん
河野道助さんのお墓
明治大学創始者宮城浩蔵さんの
お父さん達のお墓
等々織田家縁の皆さん
織田家御家臣の皆さんの
お墓が沢山建っておられます。
お墓の在処
湯村先生に教えて戴いたのでわかりましたが
聞かないとなかなかわからないです。××;
ご興味のある御方がお参りにいって
わかるように地図があると良いですよね。
案内看板とか。

妙法寺 観月庵

『 妙法寺 観月庵 』
吉田大八切腹の観月庵を
大切に御守りしておられる
妙法寺さんです。

維新後のその当時は茅葺き屋根の建物でありました。
現在は建て直され観月庵のその当時の天井板

吉田大八切腹時に
介錯無しで御腹を三段に斬り
御自分で首を斬られた
(藩を思って一身に責任を背負う
覚悟の強さが伝わります)
その時に散った血飛沫が残る天井板は
そのまま残しておられます。

茅葺き屋根の建物時代の写真や
吉田大八縁の品々
大八さんのお嫁さんの写真もありました。
肖像画は大八さんの息子さんを参考に
描かれたそうでかなりの美男子と
伝えられているとお話がありました。

展示されてある
貴重な資料は
一度盗難にあい失くされ
取り戻す事が出来
それ以来大切な実際の品々は
何処かに仕舞われて
現在観る事が出来る
展示してある品々は
精巧な複製品だそうです。
妙法寺さんの御住職さんは
かなりの蔵書家で
勉強なされて
お詳しいので
質問をすれば詳しくお話を
なさって下さると思います。

天童織田藩信長公祭

『信長公祭』
行って来ました。
天童の有志の方々
織田藩家臣の御子孫の方々
信長公をお慕いする方々が
歴代藩主と信長公を御守りし
御法要を執り行う厳かな
お祭りでありました。
二胡の演奏が御法要をなおいっそう
心洗われる空間に。
今回初めて信長公祭に参加してみて
知らなかった事、謎だった事がわかりました。長い文章になるのでお時間のある方ご興味のある方だけお読み下さいませ。
三宝寺に納めてある信長公の肖像画は
明治期に撮影され宮内庁、織田家、三宝寺の3ヶ所に。三宝寺の『五七の桐紋』は天皇家の副紋で足利氏に許され足利氏から信長公に其れから三宝寺に許可された高貴な寺紋だそうです。御霊屋の仰徳殿には歴代藩主や御家族の79名の御位牌が安置されているのだそうです。






『天童の八重さん』
織田領荒谷村の大庄屋、村形家の娘、
八重は11代藩主の側室となり13代藩主となる寿重丸を生んだ。産後は戦火を逃れて実家に戻り失意のなか命を落とした。
『三宝寺、戊辰戦争に巻き込まれる』
庄内藩兵が官軍方の天童に攻めいり閏四月四日、天童藩の御陣屋や民家を焼き討ちした。三宝寺も焼失したが、御霊屋の御位牌は二〇世住職詮応上人達が、伊達藩領の秋保温泉に背負って持ち運び戦火をまぬがれた。
『子ども漫画の先駆者
貴族院議院の 織田信恒』
織田信恒は元相馬藩主の長男で
12代藩主信敏の長女 ゑいと結婚し14代を継ぎ子爵を襲爵した。
京都大学法学部を卒業し朝日新聞編集部に迎え入れられ子ども向け漫画『正ちゃんの冒険』を連載し子ども漫画の先駆者となった。
中略…。
信恒が揮毫した板額と偏額が仰徳殿に掲げられている。
『建勲神社』
禰宜さんに丁寧に教えて戴きました。
神社内に奉納してある信長公の甲冑と経し切り長谷部。レプリカでありますが信長公を慕う市民の方が寄贈なされたそう。その他九州の信長公を慕う殆んど目の見えない方のお描きになられた信長公肖像画の版画。見事でありました。気持ち籠っておられます。
建勲神社の高橋泥舟さんの文字。
泥舟さんとお付き合いのあった天童市民の方が頼んで書いて戴いき後日この様な物がありますと出てきて建勲神社の旗印に。天童市内に泥舟さんに書を書いて戴いた方が多数居られるようで御菓子の早川さんの文字も泥舟さんだそうです。( ・∇・;)
知りませんでした。
建勲神社での御法要では
有楽斎の流れを継ぐ茶道の美しい所作の
御点前を拝見する事が出来ました。
信長公に献杯ならぬ献茶。
二胡演奏と相まって
身が引き締まる感じです。
織田めしを戴きながらの
広重美術館さんのお話も興味深く。
吉田大八が自害した観月庵がある
妙法寺さんで。
ご住職にお尋ねすると詳しく色々と
教えて下さいました。
吉田大八が切腹した後
冥福を祈った官軍の将は
桂小五郎さんではなく
桂太郎さんでした。
ご住職が桂太郎自伝の書を出して
見せて下さいました。
長年の謎が解明されました(*T-T*)
妙法寺さん。
矢吹えいしゅうさんの
ご実家なんですね。
ご親切なご住職はえいしゅうさんの
お父様((((////)))知りませんでした。
(矢吹えいしゅうさんは若手のやる気ある
山形県会議院さんです。割り箸を使わずマイ箸を何時も持参の若者であります。)
お父様から全国から今年の大河ドラマが吉田松陰なので見学に来られるよと話して下さいました。
又改めてゆっくり見学にお邪魔したいです。
歴史に詳しい緒先輩方のお話も
お聞きでき織田めし
食する暇無し。
いえ、しっかり戴きましたが。(汗)
観光物産課のおねえさんからも
天童にも織田家臣の御子孫の方々が
今も結構いらっしゃるとお聞きでき
心臓ばくばくな時間でありました。
『信長公祭』
織田の里天童の要のお祭りに。
基盤を作ろう。守ろう。
という有志の方々の思いが籠った
厳かなお祭りでありました

【 天童織田藩と女たち展 1】

まち歩き研修会復習はいまだなのでありますが戴いてきた資料に興味深い記事が。
【天童織田藩と女たち展】
天童市立旧村山郡役所史料館で
12月13日まで。
困難に立ち向かった天童織田藩の
女性達にスポットを当てた企画展。



八重の方
高澤鏡子(かねこ)
野田鶴子
高橋浩(こう)の四人。

八重の方は天童織田藩11代藩主
信学の側室となり
13代藩主 寿重丸の生母となる。
しかし産後の肥立ちが悪く
26歳で亡くなる。
寿重丸もまた明治4年5月に
わずか6歳で死去した。
(寿重丸くんが藩主になったのは2歳)

高澤鏡子は藩士高澤佐徳の長女で

国際司法裁判所長 安達峰一郎の
妻となる。
(安達峰一郎は山辺出身。
明治大学創始者の天童織田藩士
宮城浩蔵の教え子でもある。
安達峰一郎は世界の良心と謳われ
亡くなった時にはオランダ国で
国葬が行われた。)

野田鶴子は藩士野田閑哉の一人娘。
百石取りの裕福な家柄であったが
戊辰戦争で家が焼失。
窮地に追い込まれながらも
懸命に家族を支えた事で
県から孝養者として表彰を受けた。

高橋浩は藩士高橋元次の長女で
23歳で後妻にはいり
文豪 志賀直哉の継母となる。

そんな女性達の企画展が今、
開催中でした。
………………………………………………………
10月17日(土)10時から
同史料館で
天童郷土史研究会顧問の
大木彬氏のミニ講演会
『古文書からみた天童織田藩の動き』
が開催される。

お問い合わせ
TEL 023-653-0631
天童市立旧村山郡役所史料館


http://www.adachi-mineichiro.jp/

信長公の肖像画を撮影した織田藩士

天童織田藩まち歩き研修会
講師の先生から戴く情報量が
半端なくお伝えすべき事がきちんとお伝え出来るか不安ではありますが一つずつ。
先ずは

天童織田藩に伝わる信長様の肖像画。
あの御写真はいったい誰が撮影したのか。
遠藤周作の『たかが信長されど信長』で
世に出た肖像画。天童に伝わる信長様の肖像画。
三宝寺に飾ってある御写真の裏をみると
『大武写真館』の赤い印が。
撮影されたのは
織田藩御家臣大武丈夫さん。
この方凄いお方でした。
明治34年に
天童から仙台東一番町に出て
大武写真館を開業。
大正天皇東北御巡行に命じられ
松島行幸を撮影。
その他
高橋是清。孫文。香淳皇后。
等を撮影された方でした。
仙台では大武さんの御弟子さんが
今も大武写真館を営んおられるそうです。


2016年1月20日水曜日

【 織田藩の女たち展 2】



田鶴町一帯に御陣屋を中心に
御家来の武士の皆さんが御家族と
御住まいになっておられました。

織田藩の女たち展
ずっとずっとどうなんだろう……
という疑問が八重の方のコーナーで晴れました。
戊辰戦争の時
お殿様達はどうしたのか。

書かれてありました。

1868年明治初めの田鶴町の地図。
カラフルな原本はガラスケースの中ですが
複製に女性達のお家が
ピンクのマーカーでわかりやすく
書かれてあります。
4月26日
庄内藩勢が天童に押し寄せる
風聞があり老幼婦女子の避難を命じ
厳戒体制に入った。

この時信学は
奥方、側室八重の方、お滝の方をはじめ
寿重丸、乳母、女中等と共に
家老野田ギ太夫
医師志田六硯等
十数人の従者に守られ
八重の生家である村形宇左衛門宅に
避難した。
だが、庄内勢の閧の声は
三本松付近まで聞こえ
荒谷は天童に近すぎるので危険であると
宇左衛門に案内され
山寺の遠藤金兵衛方に赴いている。
しかし庄内藩の攻撃もなかったので
28日に天童に帰っているが
産後の肥立ちが悪かった
八重の方は前日27日26歳で亡くなり
即円寺にて仮葬している。
現在の八重の方は
三宝寺御霊屋の
北側にお眠りになっておられます。

志賀直哉のお母さんになった
高橋浩さんの事も。
『母の死と新しい母』
という作品でお母さんの事を
書いてあるそうです。
直哉が心の優しい浩に
実母のように懐き
心から慕っていた事
浩も我が子のように愛していて
くれる事が述べられている。
昭和45年秋
父との不和で28歳の直哉は
家を出たが後に和解している。
これは継母の力があったからと
思えてならない。
浩は一男五女を
生み育てる。
と書いてありました。
天童の文学の森に
志賀直哉の碑があるそうです。
場所を知らない天童市民で
申し訳無い××;
色んな事を
次々知ってゆくと
違う町に見えて来ました。
天童 !
………………………………………………………

織田藩の女たち展の一角に
お隣の秋田の佐竹様から
町が焼けて大変だったね
お見舞い金送りますね
という内容のお手紙も展示されてありました。
有り難や有り難や(T-T*)

古文書からみた天童織田藩の動き



観てきました。
この講演会のきっかけは
織田藩士高橋家の御子孫の方が
郡役所史料館に来られた時に
天童織田藩の地図に御自分の御先祖の
屋敷が書かれてあるのを見付けて
お家に帰られてからうちの先祖はどんな人だったのか
史料館にお電話で家に古い資料があるので
調べて戴く事は出来ないでしょうか。
というお問い合わせから始まったそうです。




『高橋家由緒書』

織田信雄代で百貫で召し抱えられ
信昌の代では知行400石の家老に。
実力のある御先祖様だったそうです。
関ヶ原の戦いで破れて
岐阜→熊本→江戸と
移っていった事
その時代その時代の
高橋家のありまし
織田家のありましが書かれてあり
其れが幕末の時代までしっかりと。

もう一つの資料は
『明治8年 織田信敏より
岩倉具視督部長宛 届書』
明治7年から8年の間に全国の藩主の
親族 家族の詳細記録を纏めさせ集めたようで
織田藩の宗家68名の記録を書き留めた書。
書写理由書き有り。
今までの他の資料との
大きな差違に注目。
とありました。


講演会には高橋家の御子孫の方が
東京と千葉県と兵庫県から
6名の方が御見えでありました。

その資料大変貴重な物で
今までにわからなかった事が
幾つも書かれてある物でした。
その資料のコピーは
織田藩の女たち展の開かれている
二階に展示されてあります。

講演会はその他
井田家文書
長井政太郎氏旧所蔵書
須貝明子氏所蔵文書
佐藤治右衛門『両郡御領内地方手鑑』
御年貢を何処で何れくらい
誰が取りまとめていたのか。
緻密な調べ作業で
一つ一つ昔あったことを
解き明かしてゆく。
郷土史家の先生方が日夜
奮闘なされて
新しい何かが解ってゆく!!
織田家織田藩を
知ろうと講演会の行われる
お部屋が満員になりました。
浪漫だなあ……… !!!!
じわじわ感動していました。
…………………………………………………………
講演会の後の質問時間内で
多分湯村先生だと思うのでありますが
(後ろ姿だけお見受けし)
織田家の家系が繋がったお話で
18代目藩主の方は
織田信恒様の
三番目の御子様の流れと
ありました。
詳しいお話がお聞きできる時が
とっても楽しみです